神と倶(にある人(
人間(は神(を信(じ、神(と倶(にありさへすれば、池辺(の杜若(や、山林(の青葉(が、自然(に包(まれて居(る如(く、長閑(にして安全(なものである。然(し世(の中(は、変化(があるので、人生(は面白(い。彼(の美(しい海棠(の花(だけを避(けて、吹(き捲(る暴風雨(はない。如何(なる苦痛(の深淵(に沈(むとも、心(に正(しき信仰(さへあれば、即(ち根本(に信(を置(いて、惟神(の定(めに任(せてさへ行(けば、そこに変(りの無(い彩色(があり音響(がある。
人生(
吁(ああ)、人間(にんげん)は一滴(いつてき)の露(つゆ)、一塊(いつくわい)の土(つち)さへ作(つく)る能力(のうりよく)もなき癖(くせ)に、天地(てんち)に充満(じゆうまん)して、身(み)の置(お)き処(どころ)の無(な)いほど、大(おほ)きい苦労(くらう)を作(つく)る事(こと)が出来(でき)る。人間(にんげん)は苦労(くらう)を作(つく)るために、決(けつ)して生(うま)れたのではない。人間(にんげん)は神(かみ)の生宮(いきみや)神(かみ)の御子(みこ)、天地(てんち)経綸(けいりん)の使用者(しようしや)として、神(かみ)の御用(ごよう)の為(ため)に世(よ)に生(うま)れて来(き)たものである。惟神(かむながら)の心(こころ)になつて何(なに)も彼(か)も悉(ことごと)く、天地(てんち)の神(かみ)に打(う)ち任(まか)せさへすれば、自然(しぜん)天地(てんち)の恵(めぐ)みが惟神的(かむながらてき)にして、自然(しぜん)の儘(まま)に行(ゆ)き渡(わた)るものである。然(しか)るに神(かみ)に在(あ)らざる人間(にんげん)の根蔕(こんたい)は、兎(と)もすれば揺(ゆ)らつき、動(うご)き出(だ)し自然(しぜん)の規定(きてい)を、我(われ)から破(やぶ)つて、神(かみ)を背(せ)にした道(みち)を踏(ふ)むために、遂(つい)に神(かみ)の恵(めぐ)みに離(はな)るるに至(いた)るのである。
若(も)し人間(にんげん)に、樹草(きくさ)の如(ごと)く確固(かくこ)たる根(ね)があつて、総(すべ)てを天地(てんち)に委(まか)して優和(やさ)しい大自然(だいしぜん)の懐(ふところ)に抱(いだ)かれる余裕(よゆう)さへあれば、何時(いつ)の世(よ)も、至幸至福(しかうしふく)で長閑(のどか)で、悠々(いういう)たる光陰(くわういん)を楽(たの)しく送(おく)る事(こと)が出来(でき)る様(やう)になつて居(を)る世界(せかい)である。牡丹(ぼたん)も、杜若(かきつばた)も、又(また)は清(きよ)い翠(みどり)を見(み)せる樹々(きぎ)も、大風(たいふう)に揉(も)まれ、大雨(たいう)に撲(う)たれて、手足(てあし)を挫(くじ)かれる程(ほど)の憂目(うきめ)は見(み)る事(こと)はあつても、其(その)根蔕(こんたい)に、些(いささか)の揺(ゆる)ぎも見(み)せぬ。此所(ここ)は苦(くる)しいから、他(た)の土地(とち)へ移(うつ)らうとは考(かんが)へない。大風(たいふう)は何処(どこ)へいつても吹(ふ)き、大雨(たいう)は何処(どこ)へ行(い)つても降(ふ)る。美(うつく)しい太陽(たいやう)は、何国(いづこ)の涯(はて)にも輝(かがや)く。今日(けふ)の暴風雨(ばうふうう)を、凌(しの)ぐだけの勇気(ゆうき)さへ持(も)てば、明日(あす)の、長閑(のど)かな歓楽(くわんらく)に会(あ)ふ事(こと)が出来(でき)ると覚悟(かくご)して、天地(てんち)に絶大(ぜつだい)の信(しん)を置(お)く、その為(ため)に些(すこ)しも動揺(どうえう)が無(な)い。土地(とち)を替(か)へても、処(ところ)を変(か)へても、会(あ)ふだけの苦難(くなん)には会(あ)ひ、享(う)けるだけの歓楽(くわんらく)は享(う)ける。麻縄(あさなは)で縛(しば)られて、身(み)の自由(じいう)を得(え)ようと煩悶(もだ)へるのは、応(やが)て自(みづか)ら苦痛(くつう)の淵(ふち)に沈(しづ)むものである。人間(にんげん)は一切(いつさい)を惟神(かむながら)に任(まか)せて居(を)れば、実(じつ)に世界(せかい)は安養(あんやう)浄土(じやうど)であり天国(てんごく)である。
爛漫(らんまん)たる花(はな)の香(か)に酔(よ)ふ春(はる)の光(ひかり)も、次第(しだい)に薄(うす)らぎ、青葉(あをば)の茂(しげ)る夏(なつ)となり、木葉(このは)の散(ち)り敷(し)く秋(あき)の淋(さび)しさを迎(むか)へ、雪(ゆき)の降(ふ)る冬(ふゆ)となつて、万木(ばんぼく)万草(ばんさう)枯死(こし)の状態(じやうたい)になるは、天地(てんち)惟神(かむながら)の大道(だいだう)である。香(かほ)りの好(よ)い釵(かんざし)の花(はな)を嬉(うれ)しう翳(かざ)した天窓(あたま)の上(うへ)に、時雨(しぐれ)が降(ふ)り、愛(あい)の記念(きねん)の指環(ゆびわ)を穿(さ)した白魚(しらうを)の手(て)に落葉(おちば)がする世(よ)の中(なか)だ。花(はな)の山(やま)が青葉(あをば)の峰(みね)と忽(たちま)ち代(かは)り、青葉(あをば)の峰(みね)は木枯(こがらし)の谷(たに)となる。辛(つら)い経験(けいけん)は、人生(じんせい)にとつて免(まぬが)れ難(がた)き所(ところ)である。然(しか)し乍(なが)ら、人間(にんげん)は決(けつ)して斯(こ)んな悲惨(ひさん)なものではなく、永遠(ゑいゑん)の生命(せいめい)と永遠(ゑいゑん)の安楽(あんらく)とを与(あた)へられて世(よ)に生(うま)れ、大(だい)なる神業(しんげう)を以(もつ)て、神(かみ)の御用(ごよう)の為(ため)に出(で)て来(き)たものである事(こと)を覚(さと)らねばならぬ。それは只(ただ)神(かみ)を知(し)る事(こと)に依(よ)つてのみ得(え)らるる人生(じんせい)の特権(とつけん)である。
神の国 1929/05